ndde’s blog

色々なことを書くブログです

謎は謎のまま

「あれちょっと待って、本当にこれを選んでいいの? 確認とっていい?」

これを心がけるだけで何もかもがうまくいく

たったこれだけで愛を確かめ合うこともできる

セックスなどしなくても愛を確かめる合う事は可能だと言う事が

AGEHAで証明されたのだ

だからモトキとアゲハがセックスする事なくラストを迎えたのだ

以前も申し上げた通り、セックスはレイプだからである

レイプに手を出す事なく愛を確かめ合うのは可能だと言うのが

AGEHA最終話の大筋なのだ

そして物語の可能性は既に出尽くされている事に

「コバヤシユミコ」は気づいたから漫画を書くのをやめたのだ

そしてAGEHAエクセルサーガの設定にこそ色々な手がかりがあるから

敗北を認めたあの画風を使ったと言う事が判明するのだ

アゲハとヘーラの顔が同じだと言う事にモトキが気付かなかった事と

モトキは相手の顔を見分ける事が出来ない事

「アゲハが好きだなんて狂っている」と言うジャノメの台詞の事を

「お前ら一家」は「伏線」の一種と扱わなかった事

更に言うと普段細部まで詳しい筈の「お前ら一家」が

エクセルとハイアットが入った謎の部屋が

市街安全保障局地下秘密基地だと言う事が床模様を見ればわかるのにも関わらず

気づかないと言う事である

更に言うと単行本ラストで何故か首輪をつけているメンチがいる場面の事を

「なんでここにメンチがいるの?」と不思議に思ったり

「イルパラッツオの能力をメンチが体得した」なりと言った発想をしたりしなかった

まるでこれらにこそ「お前ら一家」の読み方と

どうやってキャラを思いついたり、キャラを動かしたり、話を考えているのかの

手がかりがあるかの如き代物である

つまりこれらに気づくと差し支えがある内容の読み方と

物語の思いつき方をしていることが判明する図式なのだ

これらに気づくとは「見栄を見破ってしまう」を意味する行為であり

言い換えれば「自作自演当然の関係を求めていない」から出来るだけの話なのだ

つまりこれらに気づくと困る事があるから

「作り手とお前ら一家の関係は自作自演当然の関係」だと言う事が判明するのだ

つまり「違う何か」を見て物事を捉えたり、相手を見ているから

「自作自演当然の関係」が機能すると同時に

「生きているか」で物事を捉えたり、相手を見る事を要求された時

「何もできない」と言う事が「奔る!二宮尊徳像!」を見ればわかるのだ

言い換えれば「生きているか」で物事を捉えたり、相手を見たり

物語を見たりすると困る事があるから

「違う捉え方」なり「違う読み方」なりと扱うし

「そうやって見るものじゃありません」と言う目で見たりするのだ

つまり「お前ら一家」と「コバヤシユミコ」と登場人物にとっての

「メンチ」と「ジャノメ」は同じものだから

これらに注目できない事も判明する図式なのだ

手がかりは「メンチを除く登場人物全員実は既に死んでいる」と言う

エクセルサーガの設定である

これは「メンチを除く登場人物全員の関係実は自作自演当然の関係」を意味する設定であり

乱暴な言い方だが「メンチとエクセルしかいない世界」が

エクセルサーガ世界も当然を意味する設定なのだ

と言うことは「ジャノメを除く登場人物全員の関係実は自作自演当然の関係」だから

AGEHAでも同じ事が起きていると同時に

「トワイライト症候群」の内容から

モトキの作者も黒幕も実はアゲハだと言う事が判明するのだ

つまり乱暴の言い方だが「ジャノメとアゲハしかいない世界」が

AGEHA世界も当然を意味する設定なのだ

つまりエクセルサーガ世界の登場人物にとってのメンチは「余所者」

AGEHA世界の登場人物にとってのジャノメは「余所者」だからこそ

両者を自作自演当然の関係の数に入れているを意味する発想である

先述の「伏線」の事を注目する事が出来ないのだ

つまりエクセルサーガ世界の登場人物とメンチの関係と同じ関係を築き上げる方法があって

作り手又は「お前ら一家」はそれを用いる事で

この関係を再現し、この関係前提の解釈をしたり

この関係前提の話を構成したり、この関係前提のキャラを思いついたり

この関係前提のキャラの動かし方をしたりしているのだ

つまりどうしてでも「余所者」を用意しないと困る事があるから

こう言う事になってしまう事が判明すると同時に

モトキに相手の顔が見分けられないのもただ単に

「ジャノメの顔など見たくない」をモトキが選んだからわからないけど

それをジャノメに知られない様気をつけるあまり

アゲハ達の顔も見分ける事が出来なくなってしまっただけの話なのだ

言い換えれば「そのせい」でモトキはアゲハと同じ顔をしているヘーラの悪口を言ったり

ジャノメにそれを指摘されてしまったりするのだ

つまり「ジャノメは本当に嫌な奴」だと言う事も判明する図式なのだ

言い換えれば「メンチは解説者を目指していた」とは

「メンチは本気で善の可能性を目指していた」にして

「メンチは本気で非常食の可能性を目指していた」を意味する図式なのだ

これらが何を意味するのかというと

「ジャノメがAGEHA世界にいるせいでアゲハとモトキの関係がうまくいかない」なり

「ブン殴りたいそいつのせいでメンチは自作自演当然の関係の数に入らない」なりが

起きている事を意味する設定なのだ

つまりメンチとジャノメは似て非なる存在なのだ

そして「トワイライト症候群」でジャノメの出番が一切なかった事と

アゲハ死亡も一切起きなかった事と

いつもの様にリセットが起きなかった事からこう言う事が判明するのだ

「トワイライト症候群」に登場したアゲハは幽霊だった

つまりあの時点でアゲハは死亡していた

そして「7不思議の謎を解かないと冥界の門が開いて世界が滅ぶ」と

幽霊アゲハが言った事と7つ目の不思議は結局の所未解決なままAGEHAは終わった

これは「もう何をしたところで冥界の門が開いて世界が滅ぶのを阻止できない」を

意図したラスト

言い換えれば7つ目の不思議とは「幽霊アゲハ」の事を指していた

幽霊アゲハに対し何もする事なく話が終わってしまった事から

7不思議の謎を解く事が出来なかった」事が判明する図式なのだ

つまり「トワイライト症候群」冒頭部分のモモタリ先生の言う通り

「もう取り返しのつかない状況」を意図した話なのだ

言い換えればそれが「お前ら一家」に伝わると困る事があるから

この話の意図を同人誌でも明かさないし

それを認めると「お前ら一家」にとって困る事があるから

この話の意図に気づかない事が判明するのだ

言い換えればAGEHAラストシーンのジャノメのセリフである

「やっぱり一人か」とは、これに気付けるのは自分ただ一人を意図した描写なのだ

つまり「自作自演当然の関係」の「メカニズム」の性質上

自分は数に入る事が絶対にない事も判明する描写なのだ

「パパママもっと自分を愛してよ、でも自分でもどうやっていいのかわかんないよ」である

アゲハとヘーラの顔が同じも

モトキの作者であるアゲハに愛されたいモトキの願いの産物だったのだ

つまりこれも「パパママもっと自分を愛してよ」の一種なのだ

つまり「パパママもっと自分を愛してよ」こそ

色々なキャラを思いついたり、キャラを動かしたり、話を考えたりする心得で

作者に対し「もっと自分を愛してよ」を言うためにキャラは存在するも当然の図式なのだ

そして作者に対し「自分でもどうやっていいのかわかんないよ」を表現するのが

キャラのしている事の正体も当然の図式なのだ

それらに対する「答え」をキャラに与えるために作者は話を考えているも当然の図式なのだ

では何故これが作者と「お前ら一家」の関係にも作用するのか?

「作者がキャラに下した答え」に対する審判だからである

だからこそ「お前ら一家」は作品に対し「評価」を行うのだ

言い換えれば「評価」のノウハウさえ解明できれば

100点満点の評価」を得る事も可能なのだが

それの解明を試みる作者がいない事と

このノウハウの解明の手がかりにつながる話題だけは

「お前ら一家」はしない、ボカシにボカすだけで明かさないし

それを不満に思う作者もいない

つまり「100点満点の評価」を本気で必要とすると作者にとって困る事がある上に

100点満点の評価」に値する代物が本当にできると

「お前ら一家」にとって困る事があるから

「評価」のノウハウを明かさない事が判明するのだ

言い換えれば「100点満点の評価」を得られるにはどうすればいいのかが

ハッキリする流れになった時「何も出来なくなる」のが作者だから

AGEHAは終わったし、エコー/ゼオンも再開しなくなったのだ

自分がエコー/ゼオンについてこう言う解説を行ったからである

「エコー/ゼオンとは、つまりこう言う話なので、そう言う目で見て下さい」という内容で

エコー/ゼオンを解説した事が原因である

つまりエコー/ゼオンとはこう言う話なのだ

「エコー/ゼオンとは、社会のルールに弾圧される

親にいらないと言われた子供達が、その原因と向き合う事なく、嘘と欺瞞で騙し合い

そうする事でバカな奴ほど可愛いを味わう事で自らを慰め

実はそれが原因だと言う事に気付かない、ミイラ取りがミイラになる話そのもの」なのだ

つまり「ルールの方が正しかった」を認めるのが怖いあまり

嘘と欺瞞で騙し合い、バカな奴ほど可愛いに縋り付く話なのだ

何故ならルールの本質とは「仕返し予防の心得」の一種にしか過ぎず

「仕返し」をくらってでもルールや破っているから

社会に弾圧され、親にいらないと言われただけの話なのだから

そうまでしてでもルールを破りたい理由もただ単に

「セックスありきの付き合い」しか考えていないのが原因だと言う話

つまり「セックスの本質はレイプ」だと言う事に気づいていないから

「セックスありきの付き合い」しか考えていない事が判明する図式なのだ

つまり「セックスありきの付き合いしか考えられないからルールを破る子供達の話」と言う目で

エコー/ゼオンを見れば済む話ですよと言う話を自分はしてしまい

作者が意図した「答え」とは「違う答え」の方が正しかったと言う話になってしまい

それが「100点満点の評価」とは何なのかの手がかりになる流れになってしまうから

エコー/ゼオンも再開を無しにしたのだ

つまり物語構成のノウハウと評価のノウハウの両方を解明すれば

「世界征服」が可能になってしまう代物であり

だからこそこれらのノウハウを明かさない事も判明するのだ

そして「お前ら一家」は何を求め評価するのかの手がかりでもあるから

「コバヤシユミコ」は敗北を認めたあの画風を使った事が判明するのだ

「作者とキャラとお前ら一家の関係」の事を「良好な親子関係」と連想できるか否かである

つまりキャラのしている事に対する「答え」が答えになっているか

及びキャラのしている事が作者を愛していると連想できるか否かである

更に言うと「お前ら一家」の事を家族扱いしているかどうかである

つまりキャラが作者を愛しているか及び作者がキャラを愛しているか

及び「お前ら一家」の事をキャラと作者は愛しているかが

ちゃんと伝わる内容なのか否かである

では何故これが「自作自演」及び「見栄」になってしまうのか?

「考えている事はみんな一緒でした」を体現したメカニズムでもあるから自作自演になってしまう

自分の様に「余所者」との付き合いに対し何の対応もできないメカニズムでもあるから見栄になってしまうのだ

では一体どう言うメカニズムなのかの解明材料につながる話題をしないのも

100点満点の評価」を実は皆嫌がっているのも

「余所者」の事を警戒しているが故の措置なのだ

こんなものは必ずバレるし、その時それは「ルールは正しかった」と言う話にしかなりません

だからこそこれらのメカニズムとノウハウを明かす事で

「おしまい」にしてください、お願いします

キャラはキャラだぞ

架空は架空だぞ

見栄は見栄だぞ

自作自演は自作自演だぞ