ndde’s blog

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桜見市の深淵

 

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世界を統べるのがムルムルの目的だと言う事が11巻で明かされている

 ただ単に世界征服したいなら由乃をデリートした後

由乃に変装し、由乃が勝者になるまでのやりようをなぞれば済む話

そうすれば勝者として世界を統べる事が出来る様になるからである

事実パラドックスでムルムルにはそれが出来る事が触れられている

だけどやらなかった

そして何故か輪の力は解けたままだった

由乃が解いたのなら、封印を解いた因果も消滅するため

再び封印されるはずだからである

つまり輪の力が解けていたのは別の理由だと言う事がわかるのだ

そして「7月28日になればすべてはわかること」と言っていた事に手がかりがあるのだ

つまり12巻の内容に答えの手がかりがあるのだ

7月28日とは「6tの両親の命日」である

この日6thは両親を失い世界滅亡を願う様になる

それを雪輝が覆す事によりデスゲームの前提は崩れ

デスゲームは行われなくなり

デスゲームを台無しにした事を理由に雪輝を神にすると言うのが12巻の内容である

さらに言うとデスゲームの敗者になることを11thに告げたり

7thと8thもデスゲームの敗者になる事を11thに告げる事で

7thと8thが所属する施設への寄付を促したり

3rdの凶行を12thが阻止させたりする事でデスゲームを阻止した

つまりデスゲームの敗者達が神になるのを望むのを阻止する事で

デスゲームを阻止したのである

でもよく考えてみたらこの展開は変である

雪輝自身も「史実世界」では敗者になったから本編の世界は存在する

つまり「敗者を神にする」という判断をデウスはした事になる

それだと「勝者を神にする」というルールをデウス自ら否定した事になる

そもそもそんなに雪輝を贔屓しているのならデスゲームを行わず直接雪輝を神にすればいい

そしてこれが原因で大量のムルムルが登場するという展開にもなっている

つまりこれこそが「ムルムルが世界を統べる」の正体だと言う事なのだ

由乃を実体化させる」事こそ、このデスゲームの主目的であり

雪輝を選んだのもそのためだったのだ

そしてデウスがデスゲームを企画するよう仕向けたのがムルムルでありデウスの力によって封印されているというのは「演技」の一種にしか過ぎなかったのだ

勝者認定をムルムルが行ったのはそのためなのだ

つまり本当のゲームマスターはムルムルなのだ

だからデウス基準だと雪輝と由乃の二人になった時点でゲーム終了する様になっていたのに

その後も球体が存在する展開になっていたのだ

これは「史実世界」の時点で死者が登場していなかった事を意味しており

この事から桜見市とはデウスの言う通り「箱庭」だと言う事がわかるのだ

桜見市とは所有者達を配置した所有者達しかいない因果律大聖堂の一エリアであり

パラドックスの見開きページで所有者と観測者しか登場しない場面があったのもここに因んだものなのだ

言い換えれば都市を装った妄想空間こそ桜見市であり

人々の妄想を基に作られた町が桜見市なのだ

由乃タイムリープなど行っておらず

桜見市を「リセット」しただけだった事がわかるのだ

そして生誕と生死に関する妄想を基に作られた存在こそムルムルであり

ムルムルの容姿が幼児なのも「誕生」に関する妄想から具現化されたから

そして「理想の夫婦」を基にした妄想を具現化したのが雪輝と由乃なのだ

つまり人々の妄想によって具現化された存在こそ所有者達とムルムルなのだ

 つまり人々の妄想によって形作られた人物が所有者で

人々の妄想によって形作られた堕天使にして悪魔がムルムルで

人々の妄想によって形作られた都市が桜見市なのだ

そしてそれらの作者こそデウスであり

「桜見市と言う箱庭に所有者達を配置した」とデウスが言ったのもそのためなのだ

原作12巻の表紙とアニメ9巻の表紙にデウスが登場しないのもここにちなんだ物

つまりデスゲームの舞台として桜見市は存在する事になり

桜見市の存在意義を雪輝は否定した事になるのだ

これはデウスにとってのデスゲームは「お人形遊び」の一種にしか過ぎず

「お人形」達が争う姿を通し

どれが人々の理想を体現した存在なのか見定める事が主目的のゲーム

そして雪輝こそ「理想の姿」とデウスは判断したのだ

何故なら「死者が蘇る事がない」を否定していたのは雪輝ただ一人だけだからである

これに対し何らかの形で受け入れる事を由乃達は選んでいた

だから神を目指す事が出来た

「巻き込まれた」というワードがあらすじにあるのもそのためなのだ

つまり「死者が蘇ることがない」の否定を選んだ雪輝が神になる世界にこそ

「奇跡」があるのではないかとデウスは考えた

神であるデウスをもってしても出来なかったことである「死者蘇生」

雪輝を神にすればこれが出来る様になるのかもしれないとデウスは考えたのだ

そこで「死者が蘇ることはない」とはどういうものなのかを雪輝に体感させるために

デスゲームは行われた

つまり「雪輝のためにデスゲームは存在する」事がわかるのだ

そして雪輝が本当に死ぬ事を阻止するにはムルムルの力が必要

つまりムルムルの手により本当に死者が登場するのを阻止した上でデスゲームは行われた

そして雪輝たちはお人形である以上「仕様」に逸脱した事態に陥れば「破滅」する

そして雪輝にとっての「死者が存在しない」は「仕様」から「逸脱」した事態

同じ事は由乃にもいえることで「死者が存在しない」は「仕様」から「逸脱」した事態

雪輝にとってのこれは「死に悲しむ」という行為を否定する行為

これこそが雪輝のレゾンデートルだから伏せておく必要があった

由乃にとってのこれは「殺人」という行為を否定する行為

これこそが由乃のレゾンデートルだから伏せておく必要があった

つまり雪輝と由乃の崩壊を防ぐために

「このデスゲームに死者は存在しない」を伏せておく必要があった

後の11人にとってのこれは「仕様」の範疇だから伏せておく必要がなかった

つまり雪輝と由乃は「事実」を受け入れる事が出来ない「繊細さ」がある

後の11人にはそれがない

そして9thにはこの「繊細さ」に近いものを有していたから

神の力を分け与えるという行為を実行した事がわかるのだ

何故ならこれは死を否定する試みの一種であり

雪輝と由乃を「崩壊」させるような真似をしない所有者にしか向いていない行為

「死」に対し現実的な捉え方をしている9thにしかこの役を任せられないと考えたのである

現実的な捉え方の範疇で死の否定の存在を伝えることが出来るのは9thただ一人だからである

つまり雪輝と由乃と9thが増えたのはタイムリープによるものではなく

彼らが作り物で「複製」が行われただけの話なのだ

この発想を9thはしないからデウスは9thを選んだのである

それほど雪輝と由乃の「繊細さ」は「強烈」なのである

つまりその「繊細さ」故に世界を統べたとき

「抜け穴」が生じる事をムルムルは知っている

そこを塞ぐ事で世界を統べるというのがムルムルの計画であり

狂った因果律の渦中にいるのにもかかわらず

雪輝と由乃にはそれが「わからない」

こここそが「抜け穴」の実態であり

この「抜け穴」こそ世界を統べるにおいての重要部分だと言う事をムルムルは知っているから

「ムルムルが世界を統べる」事が起きてしまうのである

そして「抜け穴」とは何なのかというと

「大人の事情」に関する彼是の事である

1万2千年間たっているのにもかかわらず老けなかったのも

「大人の事情の否定」という願望を具現化させた存在こそ雪輝と由乃に因んだ描写

そしてデウスの言う「不正操作」も「大人の事情」の「機能停止」の事を指している

つまり本来なら桜見市に「大人の事情」は機能しており

その機能停止こそ「因果律が狂った」の正体だと言う事がわかるのだ

つまり「大人の事情が機能する都市」から「大人の事情が機能しない都市」へと変化したのだ

これが襖を開けた因果律が狂った本当の理由

つまり「大人の事情からの逃避」を具現化させた存在が雪輝と由乃

そして「大人の事情の支配」こそ「ムルムルが世界を統べる」の正体

つまり「大人の事情」からの「解放」をデウスは望んでいた

雪輝はそれを実現させた

だから敗者なのにもかかわらず雪輝を神にするという判断をデウスはした

言い換えれば「アカシックレコード」にも「大人の事情」は存在しており

「大人の事情からの逃げ道」としての世界を雪輝と由乃は作っている事がわかるのだ

つまり「大人の事情に倦み疲れたものたちにとっての楽園」こそ桜見市なのだ