ピオラ達の正体

 ピオラ達は構築された存在ではあるが

製造できない存在だと言う事がエクセルサーガで触れられている

そして「間違えもしないし失敗もしない存在」でもある事が判明する

 その一方でピオラ達の仕事は自作自演の一種にしか過ぎなかった事が

Holy Brownieで触れられている

そして「生まれることだけ」が唯一無二のルールだということも触れられている

「構築=製造」にならない方法があって

それこそがピオラ達の正体の手がかりだということが判明するのだ

「構築≠製造」にして生まれた存在

そして「自作自演し続ける存在」にして「間違えも失敗もしない存在」

これは「環境や境遇や肉体が変わった時の神様のありよう」を意味する図式であり

つまりピオラ達の正体は神様の分身にして神様自身なのだ

つまり「もしも自分が違う境遇や体だったら」という発想を具現化させた存在が

ピオラ達の正体であり

本体である「神様」のイメージの範疇を逸脱した行動を行う事ができないのが

「間違えも失敗もしない」の由来だと言う事が判明するのだ

これは「キャラの正体」のメタファーの一種であり

言い換えればメタネタの一種だと言う事を意味する図式なのだ

 こう言う事である

作者自身とは違う生活環境や肉体や年齢の事を「設定」と扱い

「設定」に従うと自分はこうなりますを表現した存在が「キャラ」

そして「設定」に逆らうということは自分を裏切ることになるから

「キャラは設定に逆らうことができない」が存在する

この「設定に逆らうことができない」こそ

「失敗も間違いもしない」の由来だと言う話であり

そして「キャラ=作者自身」及び「キャラは設定に逆らうことができない」という図式こそ

「構築される存在にして製造できない存在」だと言う事を意味するのだ

なぜなら「キャラを製造する」とは「作者を製造する」を意味する図式であり

「素の作者」を「再現」する試みまで行わなければならない試みだからである

つまり「実際の作者の肉体及び生まれ育った生活環境」まで「再現」しなければならず

 ゴルゴ13の「百人の毛沢東」でゴルゴが指摘しているように「不可能」な試みなのだ

つまり「同一人物同士の付き合い」こそ「キャラ同士の付き合い」の正体であり

ピオラ達の仕事が「自作自演」で成り立っていたのもそのためだという事がわかるのだ

そしてここからこういうこともわかるのだ

極論ではあるが「なりたくない姿」を作中で死亡させ

「なりたい姿」を完結編まで生き残らせる

そうすることで作者自身の「取捨択一」を表現しているのである

いいかえば「人目を常に気にしている」のがキャラだと言う事も判明するのだ

何故ならキャラのしていることは全部「演技」であり

「観客」が存在するから「演技」が成立するのであり

受け手の存在を常に気にしているのがキャラだということがわかるのだ

アニメなら「視聴者」、漫画・小説なら「読者」

ゲームなら「プレイヤー」の存在を常に気にしているのがキャラであり

キャラにとっての「裏設定」とは「プライベード」を意味する設定であり

「表設定」とは「キャラは演技し続ける存在」を意図したものなのだ

つまり「ある種の人間」だけがキャラの作成に着手できることを意味しており

残念ながら自分は作家と何のコネもないのでこの部分の定義をあげることはできない

さらにいうと「設定に従うと自分はこうなります」の「やり方」もわからない

「もし自分の生まれが○○だったら」なり

「もし自分の体が○○だったら」なり

「もし自分の年齢が○○だったら」なりの「やり方」である

これらを必要不可欠とする人が作家であり

更にいうならばこれらを必要不可欠とする人が役者でもある

その「動機」も不明である

つまり作家と役者に対するコネがないから

これらについての詳しい話がしたくてもできない

ただひとつ確かなのは

これは「独り相撲」の一種にしか過ぎず

「キャラ全員同一人物」だという事である

つまり「独り相撲を行う事でしか存在を保てない存在」こそピオラ達の正体なのである

ゴルゴ13 143 百人の毛沢東 (SPコミックス)

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